136.『男飲みはセックスで女の美しさは暴力という着眼点で、体罰を再考察する』
2023年10月30日
1分間の変な格闘がメディアや世の中の興味を引いている昨今。
狂ったように吠え、瞬発的に相手につっかかり、またそれを運営が焚き付けて人工的に乱闘をさせる様は、
本来日本人が血の中に犇々と温めている武士道とは違うのが個人的に残念である。
「好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間の持ちうる最も不徳な欲望かもしれない。」
これは三島由紀夫の言葉で正にこの格闘をとりまく世の反応をよく言い表わしている名文である。
ところで話し変わって体罰。。
私も子育てをしている中ずっと最重要テーマで自問自答し続けている。
ちょっとでも手を出せば教育であってもそれは安易に暴力とされ糾弾される立場になる。
たしかに一定数毒親や毒教師は存在する。
しかし、そのいちビンタがその人を救う事もあるはずだ。
私は最近男の飲みが、男同士の認められたセックスのように感じることがある。
その飲み癖(へき)には、そりが合う合わないがあり、それを受け入れるか否かで男同士の絆も結ばれたり千切れたりする。
つまりなにが言いたいかというと、
セックスも飲みも体罰も
「スキンシップというコミュニケーション」なのだと私は伝えたいのだ。
時として女性の美しさを暴力と感じる事がある。
理屈で立ち向かえないあの美しさ、
どんなに守らねばならないものが有ろうと
どれだけ地位と名誉とステータスがあろうと
全てをなぎ倒し
有無を言わさず圧倒的破壊で
根こそぎ
興味と集中力の全てをガードの上からぶち壊されて強引に引きずられて持っていかれる感じがするから。
また、藝術の才能もそうだ。
努力では決して追い付けない何かがそこに見えた時、その藝術的センス、圧倒的才能もまた暴力に感じる。
つまり何が言いたいかというと、
美しさや才能
無条件に良しとされるものですら暴力的側面を兼ねている。
それゆえ親や教師が教育上で手を出す、それが必ずしも暴力ではなく、救いの一手の側面を兼ね備えていることを改めて伝えたい。
言葉で何十回言ってわからない。改善の態度が見られない。時間は有限である。
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